株式会社朗読は「ことば」により、未来のこどもたちに、日本古来の思考と感受性を伝えたいと存じております。そのためには、子供の手本となる大人がしっかりと「日本語の美しさ」を身に着けなくてはなりません。株式会社朗読では、子供たちに教える先生方(特にベテランの国語教師)や、その方たちに影響を与えるアナウンサーや講演を行う方々(コンサルタント、経営者、代表者など)に焦点を当て、「美しい日本語の響き」を学んで頂きたいと考えました。
「It’s all Greek to me.」を日本語にすると「それは、私にとってギリシャ語だ」となりますが、意味は、「私にはさっぱり解らない」ということだそうです。私が、小学生の時、日本語を学ぶギリシャ人に「ギリシャ語は他の国に比べ難しいと言われているが、日本語はもっと難しい」と言われました。余談ですが、アテネオリンピックの時は、日本語とギリシャ語を話せる人がなかなか見つからず、「ギリシャ語と英語を話せる通訳」と「英語と日本語を話せる通訳」を雇う必要があったそうです漢字・ひらがな・カタカナを操る日本人は、アルファベット26文字しか使わない人たちに、実はリスペクトされているのです。
終戦後1948(昭和23)年に、日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたそうですが、結果98%の日本人が漢字の読み書きができ、GHQを驚かせたそうです。江戸時代に遡っても、寺子屋の発達により、識字率が世界一だったと言われています。
17文字に季語を入れ世界一短い詩「俳句」を創り出す日本人。数多に存在する日本芸能で、それぞれがそれぞれに語彙力を高めてきた日本人。人に迷惑をかけないように教えられ、憐れみを知り、人を敬うこころを育んで来た日本人。かつて日本人は、優しいこころと誇り高いこころを兼ね備えていました。失われつつある「誇り高き日本のこころ」を取り戻して頂きたいと願っております。
子供たちへの事業は、事業に賛同いただいた方々の寄附金によって、認定NPO法人演劇倶楽部『座』で行われております。
株式会社朗読は、子供の範となる大人に「日本語の美しい響き」と「日本のこころ」を育てる場を提供させて頂きます。
壤晴彦の朗読を聴いて頂きたい。作品の奥にある背景、登場人物の家族や生い立ち、その場面の家具の配置、場面ひとつひとつではなく、一言一句にそれが込められています。「あれは」と指示代名詞を口から発した時に、「あれ」が何かがイメージされています。「長い髪の美しい女性」と言った時に、作者のイメージや壤晴彦のイメージとは異なるかもしれませんが、聞き手に「髪の美しい女性」を彷彿させるのです。これが株式会社朗読の推奨する朗読です。
現在、様々な場所で行われている朗読に疑問を感じています。例えば、句読点でわざわざ区切って読む人がいます。私も学校でそう学んでしまいました。しかし、文部省(現在の文科省)によれば、句読点は読みやすいように打たれたものだそうです。実は、聞きやすいように区切っているものではないのです。それを、句読点で句切って読むとどうなるか。感情が途切れ、心に響かない時もあるのです。
アナウンサーが言葉を記号のように読み上げる朗読。ニュースでも聞いている気分になります。
下手な役者が自分の演技に酔いしれて読み上げる朗読。聞いている方は、たまったものではありません。著者に失礼だとも感じています。
かつて、ある方が、台本を書いたとき、ある助詞をひとつ考えるのにまる三日かかったといいます。遅れに遅れ、初日に幕が開かなかったそうです。そこまでしても、ことばひとつひとつに命をかけているのです。一言一句に命を割いて書かれた作品を人前で朗読するには、それなりの準備と心構えが必要であるはずです。
書籍を開いても、朗読という分野は定義されておりません。広辞苑第7版で朗読を引くと、「声高く読み上げること。特に、読み方を工夫して趣あるように読むこと」と記されています。「読み方を工夫して」は的を射ていると思います。「趣あるように」が、読み手が勝手に付ける趣ではなく、聴き手に作者が練りに練った趣を感じさせねばならぬものだと考えるのは私だけでしょうか。